ダーク ピアニスト
―叙事曲2 Augen―

第5章


 階段の下では青ざめた顔をしたカミーユが一人で立っていた。開かれたままの扉から冷たい夜気が静かに流れ込んでいる。
「撃った奴は?」
ギルフォートが問う。彼女は浅く頷いて外を示した。
「アルが追って行ったわ」
彼はすぐにそのあとを追おうとした。が、その時、アルモスが戻って来た。
「畜生。逃げられたぜ」
「ふん。貴様に捕まるようなら今頃はとうに牢獄にぶち込まれてるさ」
ギルフォートはさっと銃をホルダーに納めると壁に開いた二つの弾痕を調べた。絵の脇の壁が撃ち抜かれ、葡萄の釣り飾りが落ちていた。

「カミーユ……」
ルビーは足元の釣り飾りを見、それから、不安そうな顔で彼女を見た。
「ごめんなさいね。心配させて……」
彼女は長い睫を震わせるとルビーの髪をやさしく撫でた。
「ここにいたのは二人だけか?」
「ええ」
ギルフォートの問いにカミーユが頷く。
「狙われたのはどっちだ?」
鋭い視線で二人を見る。
「さあな。だが、おれ達ばかりとは限らないぜ」
アルモスがにたりと笑う。
「何?」
ギルフォートが僅かに眉を吊り上げた。

「おまえがここに入って来た直後に銃弾は発射された。おまえ、女から恨まれてるんじゃないのか?」
「……」
「ちがうよ」
代わりに答えたのはルビーだった。皆の視線がそちらに集まる。
「だって……一緒にいたのはエレーゼだもの」
「ほう」
アルモスが含みのある笑みを浮かべる。
「何だ? 言いたいことがあるならはっきりと言え」
ギルフォートが睨む。
「はは。そいつは言えねえな」
アルモスはちらとルビーを見やって言った。ルビーはカウンターに置かれた青い砂時計を興味深そうに眺めている。

「貴様にも多少は良心というものが残っているようだな」
「ああ。少なくともおまえのように屈折してねえからな。見境なしに手ェ出してる奴とは違うさ」
「おれだって選んでるさ」
そう言うと、ギルフォートは落ちた釣り飾りをそっとカウンターの上に乗せた。滑り落ちた蔓と一枚の葉が淵から垂れ下がって揺れる。
「危険な方へハンドル切ってな」
「だったらどうなんだ?」
「巻き込むなよ」
アルモスの瞳にルビーが映る。そのルビーは小さなガゼルのように何処か怯えたような表情をしていた。
「……逆だ」
男の唇が微かに動いてそう言った。時計の針は深夜を示し、石膏で出来た梟がじっと彼らを見つめている。

その時、突然扉を激しくノックする者がいた。
「警察です。先ほど、こちらから銃声がしたと通報があったのですが……」
皆が一斉に顔を見合わせる。カミーユが扉を開けようとした。が、ギルフォートがさっとその前に入り、彼女を後ろへ下がらせた。万が一のことを考えたのだ。が、いざ扉を開けてみると、そこに立っていたのは見知った顔だった。
「ブライアン!」
ルビーが彼の名を呼んで駆け寄る。

「よっ。揃ってるじゃないか」
ブライアンは人懐こそうな笑みを浮かべて中へ入ると、そっとルビーの頭を撫でた。
「ん? どうした、ルビー? 顔色が悪いぞ。それに身体も熱いし……熱でもあるんじゃないのか?」
「ううん。平気だよ。僕、ワインを飲んだの。それとビールにウイスキー、それからロシアの強いお酒……」
「ウォッカか?」
「うん。そう。それでちょっと気分が……」
ルビーがとろんとした目で言った。
「ウォッカだと?」
ギルフォートが眉を顰める。
「しかもチャンポンで……一体どれくらい飲ませたんだ?」
ギルフォートがアルモスに詰め寄る。
「へっ。そんなのいちいち覚えてるかよ。だが、見掛けによらず相当強いな、こいつ」
アルモスが笑う。

ギルフォートはルビーの手首を掴んで脈を測った。
「いやだよ。僕、気分が悪いんだ。何だか息も苦しくて、それで……」
呼吸も乱れていた。
「気分が……」
その全身からすっと力が抜ける。
「ルビー!」
ギルフォートが支える。しかし半ば意識がない。
「早くソファーへ」
カミーユが言った。アルモスとブライアンが急いでテーブルをどかし、ギルフォートが彼をそこに寝かせる。
「まずいな。急性アルコール中毒を起こしたんだ。カミーユ、医者を、ウェーバー先生を呼んでくれ」
ギルフォートが言った。
「ええ」
カミーユが奥に入り、電話を取った。

「おい、大丈夫なのか?」
ブライアンが心配そうに覗く。ルビーは喘ぎ、呼吸が苦しそうだった。ギルフォートが急いで彼のシャツのボタンを外す。
「いやだ! 見ないで!」
突然、ルビーが叫んだ。彼は激しく抵抗した。
「恐ろしいって……。みんな僕から逃げてくの……だから……」
その頬に涙が流れた。
「傷のせいで、みんな……この傷のせいで……」
そこで意識が途切れた。力を無くしたその手をそっと脇に置き、ギルフォートは彼の呼吸を助けるために、そっと胸部を開いた。愛らしい天使のような顔とは裏腹に醜く盛り上がった無数の傷が白い照明に浮かび上がる。
「こいつは……」
アルモスが覗き込んで絶句した。
「……わかったか。おまえがやろうとしていたことの意味が」
ルビーから視線を放さずに男が言った。

「すまん」
アルモスが詫びた。
「おれに謝ってどうする? こいつが目を覚ましたら許しを請うんだな。いつもそれで傷つくのはルビーの方なんだ」
アルモスはすっと視線を逸らすと、そこに掛けられた花の中で戯れる天使の絵を見つめた。
「皮肉なもんだな。天使が天使であるために課せられた試練か」
「そういう言い方はよせ。ルビーは……偶像なんかじゃない。生きた人間だ」
男の言葉にアルモスが瞳を光らせて言う。
「そうだとも。こいつは人間だ。おまえの人形じゃない」
「何?」
二人の間で火花が散った。
「おいおい、よせよ、二人共」
ブライアンが割って入る。

「いいや。この際だからはっきり言っておく。これ以上、おれ達に関わるのはやめろ。命の保障はしかねる。それに、邪魔だ」
ギルフォートが宣告する。
「気にするな。おれはすべて自分の責任において行動している。何かの弾みで命を落としたとしてもおまえに損害賠償を求めるつもりはない」
「そういう問題じゃない。おれの前をうろつくなと言ってるんだ」
「おまえにそんな権限はない。おれは自由の身だからな」
しゃあしゃあと開き直ってアルモスが笑う。
「貴様……!」
その時、カミーユが戻って来て言った。
「ドクトルはすぐに来てくれるそうよ。水を持って来たの。ルビーは?」
ギルフォートはグラスを受け取るとカウンターに置いて言った。
「ありがとう。でも、今は意識が……」
「ごめんなさい。もっと注意していればよかったわ」
カミーユが詫びる。
「いえ、あなたのせいでは……」
ギルフォートはアルモスに鋭い視線を浴びせて言った。

「何かまずい時に来ちまったようだな」
ブライアンが首を竦める。
「いや。だが、何故ここに来たんだ? おれ達に用か?」
「ああ。例のミッションのことさ。外の奴は片付けた。用事は……もう済んだようなものだ。既にあいつと接触したようだからな」
「あいつ?」
と、突然呼び鈴が鳴った。ドクトル ウェーバーである。
「夜分にお呼び立てしてしまってすみません」
「それで患者は?」
ウェーバーがそこに揃っている面々を見回して言った。
「そこに……」
カミーユの言葉に医者はさっとルビーの様子を見て言った。
「取り合えずベッドへ……カミーユ、2階は空いていますか?」
「はい」
そして、医者とブライアンがルビーを2階の部屋のベッドに運んだ。カミーユが灯りを持って付いて行く。

 しかし、医者が診察をしている間も階下では男達はもめていた。
「出てけ!」
ギルフォートが言った。が、アルモスはカウンターに置かれた白い天使の彫像に触れ、悦に浸って頷いた。
「ほう。こいつはなかなか上等な品もんだ」
「聞こえなかったのか? おれは出てけと言ったんだぞ」
ギルフォートが苛立つように言った。
「ここはカミーユの店だ。おまえにそんな権限はないね」
「店はもう閉店だ」
「泊まって行くさ」
「なら、おれ達が出て行く」
「坊やを連れてか?」
アルモスはカウンターの奥の引き出しから金具を取り出すと、壁にカンカン打ち付けて、葡萄の釣り飾りをそこに吊るした。緑の葉と葡萄の房に隠されて、弾痕は見えなくなった。
「どうだ? 完璧だろう」
そう言うとアルモスは道具をまた引き出しに戻す。それからそこに立つ男の顔をじっと見つめて言った。

「もうやめとけよ」
さっき壁に掛けた葉と同じ色の瞳をして、男はそこに立っている。
「やめておけとは?」
二人の間に乾いた砂の時間が流れている。
「もう限界だ。これ以上はルビーの神経が持たない」
「貴様には関係ない」
硬く結晶した宝石のような瞳でギルフォートは現実を見ていた。が、アルモスは彼の背後に流れる砂の流れを見つめていた。ルビーが見ていた青い海色の砂を……。そこに生はなかった。しかし、そのガラスの向こうには時の神秘が隠されている。

――見ないで! みんな僕から逃げてくの。この傷のせいで……醜い傷と心のせいで……

「……そんなことはねえさ」
アルモスは微かな声で呟くと振り返って言った。
「率直に言おう。奴を……ルビーをおれにくれ」
アルモスが言った。
「何だって?」
ギルフォートは信じられないといった目で男を見つめた。
「ただとは言わん。おまえが欲しがっていたあの弟の絵と交換ってことでどうだ?」
勝ち誇ったような笑みを浮かべてアルモスが言う。
「ふざけるな!」
ギルフォートが叫ぶ。
「ルビーは物じゃない。そんな条件が飲めるか!」
「なら、一生、あの絵は手に入らないぜ。おれが手放さないからな」
「貴様……!」
殴り掛かるギルフォートの手を掴み、男は真剣な表情で言った。
「これ以上、おまえと一緒にいたらルビーにとってろくなことはねえ。奴は特別な存在だ。その才能を俗世の、いや、おまえの因縁のごたごたに巻き込まれて壊されたくねえんだ」

「ルビーを手に入れてどうするつもりだ?」
「そうだな。この絵の天使のように、きれいな服を着せて、好きなだけ花畑で遊ばせてやるさ」
「悪魔め」
吐き捨てるようにギルフォートが言った。が、アルモスは笑って言い返す。
「どっちが悪魔だ。取り返しのつかない傷を負わせやがって……。あいつに似合うのは薔薇とワインと芸術だけさ」
時計が静かに時間を告げる。
「ルビーは……おれの所有物じゃない。仮におれが許したとしても、グルドは奴の脱会を認めないだろう」
ギルフォートの言葉に男が反論する。
「グルドなんか関係ねえ。訊きたいのはおまえの気持ちだ。さあ、答えろ。JaかNeinか?どっちだ?」
喉元に指を突きつけてアルモスが迫る。時計の中の地球が逆さまに回り、水晶で出来た天秤が傾く。その天秤の上でピエロが軽口を叩いている。

――どっちを選ぶ?

その人形の顔がルビーと重なる。

――僕とミヒャエル……捨てられるのはどっち? 愛されてるのはどっち? ねえ、今すぐ決めて

「どうなんだ?」
アルモスが迫る。

――ギル……
――お兄ちゃん

「あの絵が欲しくないのか?」
一瞬だけ脳裏を過ぎった悲しい瞳……。
だが、ギルフォートは答えた。
「Neinだ」
「何故?」
「言ったろう? 奴は人間だ。貴様の慰み者にするつもりはない」
僅かに逸らした視線の奥でカウンターのグラスが照明と青い砂に反射している。
「むざむざ不幸にするとわかっていてもか?」
壁の天使がじっと彼らを見つめている。その中の一人はミヒャエルに似ていた。
「何故そう言える?」
「おまえほどの奴にそれがわからない筈がないだろう?」
「そうかもしれないな。だが……」
グラスを握り締めて呟く。
「ルビーは……」
視線の先にあるものは……闇。だが、ギルフォートは続ける。
「奴は渡さない」
それを聞いてアルモスが微笑する。
「ほう。それじゃあ、あの絵は諦めるんだな?」
「……ああ」
数秒の沈黙。ガラスの照明がその表情を照らす。

「はは。どんなに精巧に描かれていたとしても絵は生きちゃいないからな。だが、生きている人間ならどうだ? 例えば、エスタレーゼのことは?」
アルモスが唐突に切り出す。
「彼女は……関係ないだろう」
木製のテーブルに置かれたアロマキャンドル。今はその芯に炎はない。ほのかに花の香りが漂っているだけだ。
「あるさ。可哀想に……。ルビーはまだ何も知らないんだ。だが、おれは知ってる。ルイーゼのこともな」
ギルフォートの緑色の瞳が鋭く光る。

「何を知ってる?」
カウンターの奥の棚に整然と並んだボトルの群れが様々な年代の色を奏でる。
「すべて」
アルモスが唇の端を上げて答える。
「でまかせを言うな」
ギルフォートが睨む。
「ここはおれの地元のような街なんだぜ。鼠の抜け道だって熟知してる。裏の情報にだって精通してるんだ。何ならおれが掴んでいる情報をグルドのボスに垂れ流してやってもいいいんだぜ。部下に奥方を寝取られるとは、ジェラードも大したことねえなって……」
「黙れ!」
強くカウンターを叩いてギルフォートが言った。
「ああ。黙っててやるさ。だが、おまえの本当の気持ちを確かめておきたいんだ。今度は人間だ。さあ、答えろ。ルビーと彼女ならどっちを選ぶ?」
視線がぶつかる。しかし、返答はなかった。

「それがおまえの答えか?」
「……」
静寂の中に浮かぶ憂鬱……。秒針の音だけがやけに響く。
「いいだろう。だが、おれは奴を諦めない。強引にでもおまえから奪ってみせる。でなきゃ、奴は報われやしねえからな」
「勝手なことを……」
掠れた声でギルフォートが呟く。
「勝手か。そうだな。だが、おれにはそういう生き方が性に合ってるんだ。言ったろう。おれは人間の本性を描く画家だと……。人間なんか所詮はみんな似たかよったかの出来損ないの集まりだ。そんながらくたが無駄な抵抗をして右往左往しているのを見るのが面白かった。足掻いてものた打ってもどうにもならねえのによ。だが、ルビーに出会っておれは目覚めたんだ。出来るなら、この手で運命を変えてみてえ。神に逆らってでも奴を救ってやるってな」
「それこそ、愚か者の無駄な足掻きだ」
「そうかもしれねえ。だが、おれはやると言ったらやる。そういう主義だ。覚えとけ」
そう言うとアルモスは店の扉に手を掛けて言った。
「今はおまえに預けておく。だが、必ず近いうちにもらいに行く。それまで大事にしてやるんだな」
静かにオルゴールボールを響かせてアルモスは夜の街に出て行った。

「奴め! いつか殺す……!」
ギルフォートが呟いた時、2階からドクトル ウェバーが降りて来た。
「特に心配したことはないようだ。一応、点滴をしておいた。明日の朝には元気になるだろう」
「ありがとうございます」
ギルフォートが礼を言う。
「出来れば明日、診療所の方へ来てくれないか」
ウェーバーが言った。
「君達二人でね」
「ドク……」
ウエーバーは壁に飾られた天使の絵を見つめて言った。
「どうやら二人共カウンセリングを受けてもらう必要がありそうだからね」
「……?」
「悪いが調べさせてもらったんだ。君のフィレンツェの病院での実績は認める。だが、君は医師免許を持っていない。そうだね?」
ギルフォートが頷く。再び時計の天秤がひっくり返ってカタンと揺れた。
「……わかりました。明日、二人で診療所へ伺います」